衆院選徳島1区、飯泉知事不出馬の背景 誤算続き、崩れた戦略
次期衆院選徳島1区への立候補が取り沙汰されていた徳島県の飯泉嘉門知事が、出馬を見送った。自民党徳島県連の幹部が4月、飯泉氏に衆院選への出馬を望む発言をして、動向が注目を集めるようになってから半年。自民党の現職後藤田正純衆院議員への不満を募らせた自民県議らが飯泉氏を擁立する戦略は、最後は自ら出馬をやめるよう求める異例の結末となった。なぜ土壇場になって、シナリオは崩れたのか。相次ぐ誤算が浮かび上がる。
■知事後継候補が固辞

後藤田衆院議員らのコラージュ
「衆院選徳島1区で知事に出てほしい」。最大会派・県議会自民党の会長で自民県連幹事長を務める嘉見博之氏は4月、那賀町であった同僚県議の県政報告会で述べた。報告会には飯泉嘉門知事も出席していた。かねてより国政転身への思いを持っていた飯泉氏と、自民党現職の後藤田正純衆院議員に勝てる候補と見立てた自民県議との思惑が一致した動きとされる。
新型コロナウイルスの感染状況が落ち着き、県知事の後継にめどが立てば、県議会で出馬を表明する―。描いたシナリオに向けて歯車が回り出した。当初、その動きは早かった。5月には、県議会自民党が主導して徳島1区の後藤田氏を公認しないよう求めることを県連として決め、党本部に要望。県議会6月定例会では嘉見氏が代表質問で国政転身を促した。飯泉氏は「いずれは決断」と出馬に含みを持たせた。
地ならしが進む中、最初の誤算は、後継となる知事候補の擁立だった。飯泉氏の5期目がスタートしたのは2019年5月。任期途中での国政転身は「投げ出し」との批判が出かねない。ましてや新型コロナウイルス禍だけに、県民に不安感を与えない後継者は不可欠だった。飯泉氏サイドは当初、中央省庁の県出身男性官僚を候補として打診した。「6月定例会で副知事に招き、県民に顔と名前を売って、知事選に備える」という青写真を描いていたものの、本人から固辞される。
飯泉氏は、県議会で転身を促されたことから出馬表明の場は県議会にこだわっていたようだ。6月定例会の次は9月定例会。この間に状況は大きく変化していく。
■衆院選情勢厳しく
8月に入ると、全国的に新型コロナの流行「第5波」に見舞われる。飯泉氏が衆院選出馬への条件としていたコロナの落ち着きは見通せず、8月の県内感染者は月間最多となった。
コロナが収束しない上、衆院選に関する厳しい情勢が伝わった。自民党本部が8月下旬に行った情勢調査によると、飯泉氏は、徳島1区から立候補を予定している後藤田氏と無所属元職の仁木博文氏の2人に約10ポイント離されていた。「まだ出馬表明していない段階。決して悪い数字でない」との楽観論の一方で、「全くの新人ではない。知名度がある知事に伸びしろはない」との見方が広がった。
もともと、任期途中での転身に対し、支援者の間にも「大義がない」と異論があった。コロナ禍で県民からの批判も根強かった。選挙情勢の厳しさが拍車をかけ、周辺では慎重論が強まっていく。長く知事を支援してきたある企業経営者は「相手方に回る」とまで言って思いとどまるよう説得した。
一方、飯泉氏サイドは準備を進めた。新たな知事後継候補として県出身の女性官僚が浮上。9月10、11日には議会や業界団体を訪れている。
9月16日の県議会9月定例会代表質問で、再び国政転身を促された飯泉氏は「知事には限界がある」と踏み込んだ。10月1日の定例会閉会日に出馬表明するとの見方が大勢になっていた。
ただ再び誤算が生じる。この頃、知事が転身した場合に行われる知事選に三木亨参院議員が意欲を示していたことが明らかになる。父が徳島県知事を3期務めた三木氏は、県議を経て参院議員となり知名度は高い。後藤田氏は代表質問があった9月16日、自身の事務所開きで記者団に「三木氏が出るのは徳島にとって非常にいいこと。改革の方向は一緒だ」と述べ、歩調を合わせる考えを示唆した。
■ダブル敗戦の可能性
飯泉氏が国政転身した場合の知事選は、衆院選と投開票日が同日となる「ダブル選」が想定されていた。「飯泉氏・女性官僚」「後藤田氏・三木氏」の戦いの可能性が高まる一方、飯泉氏が出馬表明していないため、知事選の準備が進まない。自民県議や後援会関係者の間では「知事選は新人なのに時間が短すぎる。衆院選の情勢も厳しいのに、衆院選と知事選の両方を落とす最悪の事態もある」。衆院選で後藤田氏に勝つ戦略が、知事職まで後藤田氏サイドに奪われかねない状況に不安が広がっていた。
また三木氏が参院選比例代表の「特定枠」で当選した経緯から、「特定枠」の議員が任期途中で辞職しかねない事態が党本部で波紋を呼んでいた。飯泉氏が態度表明するとみられた10月1日の前日、県連会長の山口俊一衆院議員は、会長と幹事長が責任を取って辞任する意向を示し、飯泉氏に再考を促した。
マイナス要因が重なり、当初擁立を目指した自民党県議の間で主戦論はしぼんでいった。
それでも飯泉氏は10月1日朝、出馬の意向を固め、県議会自民党の幹部が議会開会を遅らせてまで最後の説得を試みた。知事職にとどまるよう求める決議を可決し、不出馬の理由とすることを落としどころにしたとされるが、「後援会組織の弱い飯泉氏にとって、頼みの綱である自民党県議の反対を押し切ってまで選挙に突入するわけにはいかなかったのでないか」と見る向きもある。飯泉氏にも選択肢は残っていなかった。
飯泉氏は議場の自席で、「出馬する」と記されていた原稿を「出馬せず」と書き直した。 (政経部取材班)